設楽ダム見直しで揺れる水源地域 その2 K-7

2009.11.7 はれ

 設楽町松戸地区はダムサイト予定地の真上に位置する10数戸の歴史的に古い集落です。

 ダム計画当初から住民のほとんどが厳しいダム反対の意思を表明していましたが、国の圧力と町のダム推進の行政に押し流されて、やむを得ず建設に従う方向に同調したのでした。

 この地域は陸の孤島のように山の頂に集落しているために水源が乏しく、1960年代の米増産政策に応じて、自らコンクリートの貯水槽をつくり山から引いた水を貯め、温めながら開墾した水田で米作りをしていました。

 しかし、減反政策が進められた今では、水田の一部は雑草地に変わっています。水田を切り開いた一部に残された墓地の丘から想像すると、水田開墾がいかに苦労であったかが見られます。

 この地域のひとに話を聴くと、今さらダム見直しと言われても・・・いう返事が返ってきましたが、きびしい山村生活の実情と集落への愛着で複雑な心境にあるようです。

 丘の上を切り開いた水田と集落をスナップしました。Pentax K7で。

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松戸地区直下のダムサイト予定地

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同じ姓の10数戸が集落する山里

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40年前に開墾された山頂の水田

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手作りの貯水槽 4名の記念碑石が苦労と豊作祈願の想いが記されている

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ダム計画への無念の気持ちがこめられたビラ

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2009年11月 5日 (木)

4ヶ月ぶりのブログ復帰・・設楽ダム見直しで揺れる水源地域 K-7

2009/11/5 晴れ

4ヶ月ぶりの復帰です。この間、職務の多忙と世の中のもめごとなどのお付き合いや体調不良などであたふたしていましたら、夏も過ぎてもう秋が深まる時期になっていました。

この間、いろいろありましたが、何と言っても大きな出来事は8月30日の総選挙の結果による政権交代でした。民主党を中心とした新政権のマニフェストで公共事業の見直しや官僚依存の脱却など政治のあり方の転換が行われ始めました。

この地方に関わることでは、八ツ場ダムや川辺側ダムの中止などダム計画の全面的な見直しが行われることになり、設楽ダムもその一つになっていることです。

私たちが30年間近く主張し続けてきた問題が、ようやく現実になりつつあり、大事な転換の時期を迎えつつあります。

そんな状況の中で、久しぶりに豊川上流を訪ねました。

すべてPentax  K-7で。K-7はとてもいいです。

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宿の裏を流れる宇蓮川 ダムからの放流で水量はあるが水質は悪く板敷きの河床は藻で黒緑色

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宿の窓から一見のどかな「清流」もどき

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間伐が進められる鳳来の山

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樹齢は約50年。日当たり場所によって育ちが異なる

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設楽町松戸地区への坂道で。ここの標識は以前の貯水容量8000万トン計画時の湛水線。

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田口小学校の真下の湛水線。ここは1億トン計画の標識。

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2009年6月 1日 (月)

豊川の霞堤を歩く  Pentax K200

2009.05.31 くもり

 豊川を守る住民連絡会議の行事で、豊川の右岸でかつてこの地域の洪水時に大事な役割を果たしていた「当古霞堤」を歩きました。

 豊川の下流域はかつてから氾濫地域で、洪水による水害にたびたび見舞われていました。そのために江戸時代にはこの流域に9カ所の霞堤が築かれ、水害の低減が図られていました。一時の洪水の氾濫を堤内の遊水池で緩和する、いわゆる「低水工法」という先人の優れた知恵による治水技術でした。

 近代になってこの遊水地域に農業が広がり、水害の危険性が高まることにともなって、住民から霞堤の締め切りなど治水対策が強く求められていました。

 1965(昭40)年に、長年の念願であった豊川放水路の完成にともない、右岸側の霞堤5カ所が締め切られ、遊水地域は一般の農用地、住宅地域に変じました。現在なお、左岸側の4カ所の霞堤が活きて、治水の役割を果たしています。

 今回は、締め切られている旧「当古霞堤」を歩いて、霞堤の役割、治水のあり方などを考える企画でした。

 霞堤が締め切られたことによる地域内の排水をするための大規模な排水機によって堤内が守られていること、実際に歩いてみると霞堤は予想以上に頑丈な堤防が築かれていたこと、堤内には遊水時の水害を守るために「水屋」方式の家屋が残っていること、宝暦年代の災害を祈念したと思われる地蔵群が残されていることなど、いろいろ観ることができました。

 現在のこの地域は、農業地域になっており、主として大葉や菊花などのハウス栽培とキャベツなどの露地野菜が栽培されています。

 心配された天候もなんとか持ちこたえてくれ、2時間余りの有意義なフィールドワークでした。

 その一部をスナップで紹介します。 Pentax K-mwで。

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        旧霞堤と現存の霞堤の略図

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         豊川放水路の分水施設

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         当古霞堤に向けて歩く

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      霞堤の堤内(右)と堤外の新興住宅地

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            霞堤の説明掲示版

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      宝暦三年の表示がある古い七体の地蔵群

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      遊水池内にある当古地区の神社前で

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       当古地区内にある水屋式住宅

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            霞堤内の農地

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2009年5月29日 (金)

栄枯盛衰(2) 倉敷市   GX200

200/05/29 はれ

 初めての倉敷の訪問でした。以前から大原美術館と水路景観などで知られていましたが、さらに1997年にデンマークのチボリ公園をモデルにした「倉敷チボリ公園」が開設され、地方都市の第三セクター方式による再開発のモデルとして話題になっていましたので、ぜひ訪ねてみたいと想っていました。

 今回はその良い機会で、長年の念願がかないました。まずなによりも近代美術や東方美術の名品が収集、展示されているという大原美術館を訪ねることでした。評判どおりに、絵画、彫刻、仏教などに関する作品が身近に鑑賞することができ、美術館へたどる道程の虚しさを癒され、心豊かなひとときを過ごすことができたのでした。

 倉敷駅で荷物をロッカーに預けるために、北口に出たところに目に飛び込んできたのが小じゃれたペデストリヤン・デッキと倉敷チボリ公園でした。新幹線駅のすぐ前の絶好の立地です。

 旧倉敷紡績工場跡を再開発して、地域の大きな期待と不安の中で鳴り物入りで開園したものでした。しかし、わずか11年ほどで2000年の1月1日に閉園になり、私が観たのは、解体がすすめられ廃墟と化しつつある寂しい姿の公園跡でした。

 思い直して駅南口に出て、景観地区に向かうために大通りをさけて繁華街通りを歩いたのですが、ここも人通りが少なく、シャッターの降りている店舗が点在して続いていました。

 途中で民芸品をあつかう店にふと立ち寄って、品物を見ながら店主に話しかけたところ、運良く、この中年の店主は街の再開発をすすめているグループのリーダーでした。倉敷の歴史、街の賑わい、その盛衰と現状、いま取り組んでいる街づくりへの想いをいろいろ聞かせてもらいました。

 ここでも大型店の進出による影響、旧来の市街地域の破壊、衰退の実態をまざまさと観る想いで、「開発という破壊」の現実を虚しく考えながら景観地区へ向かったのでした。

 この街のスナップを紹介します。Ricoh GX200wで。

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      解体がすすめられている旧チボリ公園

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          閑散とした「えびす通り」

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      シャッターが降ている売り店舗が点在

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        商業ビル一つが売りに

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         ここもシャッター店舗の並び

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  かつてこの地方で有名な金物屋跡を改造して民芸品店に

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         倉敷の産業を支えた用水路

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        大原美術館の正門前の入り口

 

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2009年5月28日 (木)

栄枯盛衰・福山の街通り   GX200

2009/05/28 あめ

 先週末、会議のために広島県福山市を訪ねました。時間の余裕がありましたので、街中を探索してみました。

 駅の北口前には、築後400年の福山城がそびえています。江戸開幕まもなくこの地方の統治のために3年の年月をかけて築造された堂々たる平城です。今も石垣などはしっかりしており、堅固なつくりを偲ばせます。

 駅の南口側は、市街地域になっており、歩いてみました。駅前大通の脇にローズナード・アーケード街があり、それを抜けて国道を越えたところに、最近整備されたと思われる「ひさまつどおり」がありました。

 この「ひさまつどおり」は、アーケードがなくオープンなバリアフリー方式の小路で、街路樹も良くなじんだ、一見おしゃれな街通りになっています。ところが通りを歩き進むと両脇の店舗が断続的にシャッターが降りていたのです。やはり、此処もかという、虚しい気持ちに陥りながら歩き続けたのでした。

 途中で、街再開発の事務所だったとおもわれる建物をのぞき込むと、計画広報のカンバンが立てかけてありました。それによると再開発事業は1998(平10)年~00(平12)年までの2年間で行われたようです。計画のコンセプトは「賑わいの道づくり」となっています。この通りを突き抜けたところに広場が広がり、その一角に市立図書館を含むりっぱな生涯学習センターがありました。

 「駅から歩いて街通りをぬけて生涯学習センターへ」というアイディアとしては、確かにすばらしいと思われますが、現実はその思惑通りではなかったようです。再開発から8,9年経ったいま、空き店舗、シャッターが目立ち、「賑やかな道」どころか「ちょっと寂しい小きれいな道」になりつつあるのです。

 日本中の地方都市で観られる現象です。大型店進出とモータリゼーションによる地方都市の中心市街地で進んだ破壊の典型だと言えます。

 何とか再生、活性化できないかと補助金を投入して進めた再開発事業の効果の実態です。これは同じ日に訪ねた、街づくりで有名な倉敷市でも同じ有様でした。

 栄枯盛衰の実情をスナップで紹介します。 Richo GX200で。

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